店長が行く!第8回
「イギリスの演劇教育と、読み書き計算」
フィオナ・レスリーさん(シアタープラクティショナー/英国ロイヤルナショナルシアター派遣ファシリテーター)×柏木 陽(NPO法人演劇百貨店代表)
イギリスの劇団「THE MAP」のディレクターであるフィオナさんは、英国ロイヤルナショナルシアターが派遣するワークショップ・ファシリテーターとして、たびたび来日しています。 彼女は、日本で演劇ワークショップをしながら、どんなことを考えているのでしょうか。 同じ仕事を日本でなさっているティム氏にも同席をお願いし、イギリスの演劇教育の現状についてもお話しいただきました。
◆ 日本人の身体は、純粋に動く
――何度も一緒にお仕事をさせていただいているのに、まとまってお話を聞く機会が今までありませんでした。 今日はよろしく。 まずビッグクエスチョンから(笑) フィオナさんは、どんな子ども時代を過ごしたんですか?
フィオナ:ちょっとムーディな子でしたね…… まあ、そんな秘密を知らなくても(笑) 子どもって何歳ぐらいのことを指すんでしょう? さっき劇場でディバイジング(即興で作劇するエクササイズ)をやりながら考えたんだけど、自分の居場所というか、自分がどうあるべきかを探すのって、とても重要なんですね。 いま自分は大人ですが、まだまだ成長している、という感じがあります。 ……私が子どものころのことは、私の母親に聞いた方がいいかも……。
――じゃあ、機会があればそうしましょう(笑) さて、世田谷パブリックシアターの教育普及活動として、先生向けのものや、学校へ出前してのワークショップを多くなさっていますが、日本で特徴的に見えてくることはありますか。
フィオナ:あえていえば、日本の人たちは、最初ドアを開けるのに時間がかかるけれど、いちど開いたらすごく真剣に熱意を持ってやろうとしてくれます。 それはすごくいいと思う。 イギリスの俳優や学校の先生たちは、もうちょっとシニカルで、冷めている場合が多いかな。
ティム:それから世田谷の現場では、参加者のビジュアルイメージと思考がすごく強く結びついているように感じました。
たとえば、日本の先生たちとグループワークで即興のエクササイズをしているとき、参加者にイメージのもとになる言葉を与えたんだけれど、どうもそれが上手く伝わらず、いい発想へと繋がらないなぁと思った。 で結局、言葉ではなく「ハートのエース」とか「クエスチョンマーク」といったビジュアルイメージから作ってもらったらすごく面白いものができたんです。
フィオナ:ある表現をしようとした時に、イギリスの学校の先生なんかだと「何でそうなのか」という理論をノートに書きとることばかりに気がいっちゃって、なかなか身体が反応しないんです。 だけど、日本人はもっと純粋にすっと身体が動いて、表現に結びついた反応ができるんです。
――一般的に、日本では「先生たちはカタい」といわれることが多いのですが。
フィオナ:イギリス人の場合、言葉で理解してからじゃないと納得して動けないな部分があるみたい。 しかも、イギリス人は議論好きだから、とにかくみんなよく喋る。 私の立場としては、どうにかして喋るのを抑えなくちゃ、とよく考えるんだけど、日本では逆におとなしいからどうしようかな、ということにはなるよね。 そこら辺が、日本では違うような気がする。
◆ イギリスの学校には「ドラマ」の授業がある
――いま日本では、学校と演劇とか、コミュニティと演劇だとか、あるいはコミュニティとアートという問題がいろんな形でクローズアップされるようになってきているんだけど、イギリスと比べた場合の差はどこにありますか。
フィオナ:大事な質問だよね。 日本のことはやっぱり全部は分からないから、印象でしか言えないんだけれど、大きな違いとしては、イギリスでは学校の中に「ドラマ」という科目があるということ。
もちろんその時代の状況によって、学校の中で「ドラマ」という科目の扱われ方の比重が大きくなったり小さくなったり、いろいろ変化しているけど、全く灯が消えてしまったわけではなくて、ちゃんと今もあるから、それは決定的に違うでしょう。 学校の科目である「ドラマ」とは何か、どうあるべきかということは今までずっと議論がなされています。
イギリスで「ドラマ」を教科として教える人は、プロの俳優や演出家でなく、「ドラマ」の教員免許を持っている先生なんだよね。 だから俳優の仕事にはならないんだけど、そういう先生がいることは大切なんです。 まず、ドラマティーチャーが学校にいることで、プロの演劇人がリンクを張っていろんなことをやれる。 それから、プロの人たちは学校に出たり入ったりになるけど、ドラマティーチャーは学校にいるから、さまざまな課題に継続して取り組むことができるんです。
日本ではワークショップのような活動がまだ新しいこともあって、毎回継続してワークショップに来てくれる人もいる一方で、必ず新しい参加者がいる。 だから、毎回演劇と教育のかかわりについて、最初から話をしなければいけない。 イギリスなんかだと、私がはじめて現場に行っても、すでにその年だけで26回もワークショップをやっている、というような状況なので、毎回最初から説明する必要はないんです。
――イギリスの学校科目としての「ドラマ」は、意義がちゃんと理解されているのでしょうか。
ティム:それはすごく大きな質問です。 イギリスではドラマが学校の科目にあるとはいえ、やっぱり学校教育のメニューの柱は、読み書き計算。 ドラマとか他の芸術科目というのはいつも学校教育のエッジぎりぎりのところに位置している。
もしかするとそれは、権力、国家権力と言っていいのかわからないけれど、支配をしている人たちがクリエイティブなものに対して恐れがあるんじゃないだろうか。 なぜかというと、クリエイティブなものっていうのは何かを変革させる力を持っている。 支配する人たちからみると、それはあんまり好ましくないので、押しやられてしまう面があるんじゃないかなぁ。
◆ 既存の科目と演劇教育が交わる場所
――日本では、教育を考えた場合にまず「発想力」というようなものを考えなきゃいけないんだ、だからアートが必要だという人もいる。 一方で、学力低下を憂える意味から、たとえば「すごく速く計算できるように」と考え、教育にアートはいらないよという人もいる。 イギリスでもそんな議論はあるでしょう。
ティム:君の分析は正しいと思う。 アートと教育が相容れないと思う人はいっぱいいる。 ただその考え方は、イギリスの歴史の中で、トップダウンで変化してきている。 60年代後半は「教育に演劇というのはいいんじゃないか」といっていたけど、マーガレット・サッチャーの時代になってそういう流れが停滞する、というように。
ただ私は、読んだり書いたり、というようなことをやるときに、クリエイティブなものが結びつくことがすばらしい教育になるんだと思う。 コ・カリキュラムといっていますが。
フィオナ:いまイギリスで注目されているのは、学校の先生がどうやって創造性を使って教えることができるのか、ということ。 別に演劇や音楽を教える、ということだけではなく、歴史や数学や国語だとか、すべての科目にわたってどのように創造性、柔軟性をもって教えることができるのかがテーマになっています。
――イギリスの劇場が起こしているアクション全般に対して、問題だと思う点はありますか。
フィオナ:むずかしい質問です。 一般的に「手段」として演劇やアートを使うというやり方と、演劇やアートそのものについて学ぶ、というのと考え方は両方あります。 この二つはよく分けて言われるんだけど、私自身はそれが完全に分けて成り立っている状況をあんまり見たことがないのです。 演劇やアートを勉強することは、人生を勉強することにも繋がっていくし、その逆もあるんだと思う。 たとえば、麻薬防止プログラムの中で演劇やアートを使ったときに、それ自体が面白くないと、参加者が何かを学ぶことはないわけだから。 こういった議論は、昔から続いてきている。
そんな中でいまイギリスでは、新しいメソッドが発案されたり、複数の方法を混ぜ合わせたりして実践が行われています。 手法は多様化していて面白い。 で、現状の問題は「それぞれの手法をどうやって評価するのか」という方法がまだちゃんと確立していない、という点かな。
もう少し大きな意味で質問に答えるとしたら、学ぶことと芸術というものは、本来はもっと近づいていた方がいいと私は感じているんです。 現状ではまだまだ切り離して考えられがち。 それも問題のひとつだといえますね。
※今回の対談では、吉野さつきさん(エデュケーション・プログラム・ディレクター)に通訳などのご協力をいただきました。 ありがとうございました。
2003年8月、東京・世田谷にて
聞き手:柏木 陽(演劇百貨店店長)
2003/10/25