「どんなからだを目指すの?」 ~世田谷パブリックシアターのワークショップ 浅井幸子(演劇百貨店スタッフ)
2003年3月25日
世田谷パブリックシアターのワークショップは、3月30日、15時からの発表会に向けて、現在ヤマ場を迎えています。
ところで、今回のワークショップで、スタッフたちは何を目指して、子どもたちとの共同作業に向かっていったのでしょうか。 子どもとの対面を前にして、12月のプレワークショップに挑んだ百貨店スタッフの様子を、教育学の研究を続けている、演劇百貨店フロアスタッフのさっちゃんがまとめました。
なお、本文中の人名らしきものは、人名です。 ヘンテコな名前が頻出しますが、演劇百貨店のワークショップでは、子どもたちはもちろん、スタッフも「呼ばれたい名前」で呼ばれることになっているのです。
◆ ワカラナイ。「からだで表現する」って何だ?
今年で4回目となる世田谷パブリックシアターの中学生のためのワークショップ「演劇百貨店」だが、今回ほど回数が多く密度の濃いプレワークショップは初めてだった。
例年のプレワークショップでは、スタッフが事前に2、3回集まって、幾つかのエクササイズを経験したり仕事の分担を決めたりしつつ、百貨店の方針や今年の流れに関する共通理解をつくっている。 今回はといえば、12月7日、8日、11日、20日、24日と5回も集まった。 柏木店長と小川番頭が「無理をするのはやめよう」と言わなかったならば、あと1回か2回増えていたことと思う。
こんなに熱心にプレワークショップを行ってしまった原動力は、「ワカラナイ」ということだった。
初回の7日に柏木店長から3つの重大発表があった。 1つ目は、今回は「からだで表現する」ということを追求する。 柏木店長は、人が何かを伝えるとき、文字情報になる言葉の部分は3%に過ぎず、残りのうち30%が声、あとは全部身体なんだと実にうれしそうに説明する。
それで今回は、身体を饒舌にして言葉はできるだけ禁欲し、どうしても出てくる言葉だけを拾っていくのだという。 言ってることはわかるし興味深くもある。 でもスタッフとしては、これまで言葉に頼ることによって14日間で物語をつくるという無理難題を何とかしてきたという自覚があるだけに、不安になることしきりである。 今回の物語はどうなるのだろう?
2つ目は、「からだ」を主題化するために、羊屋白玉さんに来てもらうということ。 羊屋さんは昨年も時々やってきて、助言をくれたり爆弾のような問題提起をしたりしていた劇作家のおねえさんだ。 柏木さんによれば、同じ劇作家でも、羊屋さんと柏木店長ではずいぶん表現が違うのだそうだ。 柏木さんは言葉の人。 言葉で物語を紡いでいく。 羊屋さんは身体の人。 舞台上で身体が触発しあう。
だから今回はダブル店長体制で、羊屋店長が芝居づくりを見て、柏木店長がワークショップを見ていくのだという。 羊屋店長の誕生に、何がおきるかな、という期待がふくらむ。 同時に、事前に羊屋さんとワークショップを重ねておきたいという欲求も募る。
3つ目は、「たからもの」をテーマにするということ。 「たからもの」という響きは素敵だ。 胸が少しキュンとなる。
しかし、いざためしにスタッフが宝物を持ち寄ってみよう、となったときに、私はすっかり困ってしまった。 宝物といえるものがなかなか思いつかないのだ。 昔は、勉強机の引き出しの中の空き缶に、たくさん「たからもの」を詰め込んでいたのに。 いつの間にかオトナになっていたようで、モノに対する思い入れが薄くなっている。 たとえ大事な人からもらった物でも、どこかでモノはモノだと感じてしまっている。
私ばかりでなく、クミカやサンちゃんも宝物がなかなか思いつかなかったと言っていた。 自分がまだ子どもだったころの記憶を手繰り寄せつつ、中学生の「たからもの」の感覚に耳を傾けるしかないな、と思う。
◆ 見つけた! トラがバターになる瞬間
5回にわたるプレワークショップは、柏木・羊屋の両店長とともに、ひたすらエクササイズとディスカッションを重ねていた。 その中で浮上してきた一番大きな問いが、「どんな身体を目指すの?」ということだった。
7日と8日に、みんなで円になってクラップや動きを順に真似ていくエクササイズをした。 柏木さんはその際に、「確実に受け取ってから渡す」ということと、「一定のリズムをつくる」ということを同時に強調する。 早速まきおこる議論。 「受け渡す」と「一定のリズム」は両立するのか?
クミカは「まわってくるのがわかると、受け取る前にたたいちゃう」という。 エザヤンは「自分はゆっくりだけど、目標としてリズミカルというのがあれば」という。 羊屋さんが「ここでゆっくり、というのもひとつのリズム」という。 サンちゃんは「受け取ったのを実感して渡す、じゃなくて、感覚でってことかな」という。
話をしているうちに、ひとつの言葉ができた。 順番に動作を受け渡していって、少しずつ変わっていくのだが、みんながテンポよく気持ちよく楽しくなる時がある。 他の人の発信したものを確実に受け取ること、みんなでひとつの空間を作り出すこと、それができていると実感できる時がある。
その状態は「トラバタ」と名づけられた。 ちなみに「トラバタ」というのは、トラが木の周囲をグルグル回っているうちにバターになった、という、かの懐かしき童話が語源になっている。
◆ 気まぐれなからだとの格闘
8日には宝物を持って静止場面をつくるエクササイズも行った。 最初に5人くらいのグループになって、それぞれが眼鏡だの花火だの自分の宝物を持って順番に舞台に入っていった。 それで「どう見えた」と聞かれても、うーん、何と言ったらいいのだろう…。 レンが「その人と宝物の関係、はわかるけど、全体では想像つかない」と指摘する。 そうなのだ。
で、次は最初の人だけ宝物を持って入り、後の4人は何も持たずに入ってみた。 つながりは出来たけれども、まだ不満が残る。 ケイは「おもしろくない、もっとはみ出たい」という。 なぜ面白くない? 宝物である意味はどこにある? 日常の身体を見せたいの? それともとびたいの? とぶってどういうこと? なぜ動けないの? 言葉がないのは単なるマイナス? メールでのやりとりも含めて、11日まで議論は続いた。
11日は話し合いを中心にしつつも、身体を意識したエクササイズを重ねた。 いろんな脱力や2人組での動作の受け渡し。 脱力はとても難しかった。 動作の受け渡しは興味深かった。 相手のうごきに、意味や物語というよりも感覚で応えていく。
私はフランキーと組んだのだが、1回目はいつの間にかフランキーが犬で私が飼い主になっていた。 どちらかが仕掛けたわけではない。 なのにそうなっていくプロセスが、まさに「息が合った」という感じでとても楽しいのだ。 ひとつの「トラバタ状態」と言っていい。
でも2回目はそうはならなかった。 フランキーに「なかなか楽しくならないね」と言われて、ほんとにそうだなーと思った。 受け渡しがうまくいき、なおかつ創造的な状態「トラバタ」は、どうも偶然の産物で気まぐれなのだ。
◆ 人が立ってるだけで「いいな」
20日にも模索は続いた。 2つのグループに分かれて、言葉を使わずにシーンを作ってみる。 最初に1つのモノと人々とで写真を1枚つくる。 次にその前後を加えて3枚の写真をつくる。 そして最後に動く。
フランキーやサンちゃんのグループは、大学のサークル部屋に異臭を放つ空き缶が訪問してくるという物語をつくった。 ケイやエザヤンのグループは、自分がロウソクや試験管などの宝物になって、箱に入ったり転げ出たりする様子を表現した。 みんなどちらの作品にも納得はいかなかった。
空き缶の方は「言葉が使えない芝居」あるいは「マイム的」に見えてしまう。 言葉がない分だけ単に芝居が貧困になる、だったら言葉を使った方がいい。 宝物の方は「ダンス的」になってしまった。 小学5年生の宝箱の中のロウソクや試験管なんだよ、という説明がないと、何がなんだかわけがわからない。 私たちは多分、どっちがやりたいわけでもない。
24日。私が少し遅れて到着すると、みんなは熱心に話し合っていた。 いよいよ明後日から始まることもあって、中学生との向き合い方などの基本的なことを確認。
最後に羊屋さんの主導で「夕日を見るからだ」のエクササイズをした。 みんなで立って並んで想像の「夕日」を見る。 それを見ていた羊屋さんは、「人が立ってるだけで、いいな、と思う」と言った。 私は如月さんの「生きていることに近いお芝居がしたい」という言葉を思い出していた。 多分、その「いいな」という存在への肯定が、私たちの出発点になるのだろう。