「ダメといっちゃダメ、な空間」 ~世田谷パブリックシアターのワークショップ 柏木 陽(演劇百貨店代表)

                                                                                                                               2003年2月25日

◆ 世田谷の中学生ワークショップは「過程も大事、結果も大事」

 

いま、世田谷パブリックシアターで「中学生のためのワークショップ・演劇百貨店」が行われており、私たちは彼らとの作品作りに追われています。 このワークショップは、私たち「演劇百貨店」の直接的な原点であり、発想の源でしたが、四年目となる今回で一応のフィナーレを迎え、終了します。

全12~15日の日程で作品作りをし、劇場(シアタートラム)での発表会を持つところまで行なってきました。 その中で、作品作りの「過程」を充実させ、なおかつ「結果」としての作品の質も同時に追求するのが、コンセプトでした。贅沢な時間でした。

この四年で、劇場を取り巻く環境も変わったようです。 パブリックシアターでは、これまでの劇場内でのさまざまな成果を、学校などに持ち込み活かしていく活動(いわゆる、アウトリーチ)を、来年度から始めるようです。

私たちスタッフにとって、この間の大きな変化といえば、参加した子どもの成長。 初年度にやってきた中学生の中には、いま高校三年生の子がいます。 このワークショップで育った子が、数年後に大学生の指導スタッフとして活躍する……まるで「鮭の遡上」のような状態を想像し、楽しみにしていました。

人が育って行くには時間が必要です。外に羽ばたき、また戻ってくる場所も必要です。 少しずつ、その場所としての機能が出来はじめたところでの終了は、正直、残念でなりません。 とにかく、私たちは、ここで得た成果を、何とか次のステージに繋げなければなりません。

 

◆ 大学生たちが苦しんだ、あるマジックワード

このワークショップの指導を直接しているのは、大学生たち。 彼らは大きく分けると、演劇を専攻し勉強している者と、教育を勉強している者。 年齢こそ多少のばらつきはあったものの、それぞれがお互いの専門を生かしながらお互いを補い合う。 そんな意図で最初に集められました。

大人でもあり子供でもあるような存在、大人の中でも一番中学生に近い存在、そんな大学生たちが一緒にいることで、中学生は、もっと楽に大人と接する術を手に入れるのではないか。 逆に、中学生と接することで、大学生たちは柔軟な対応を求められるわけです。 彼らは、彼らの中にある可能性に気づき、中学生を通して自らを見る、という経験が出来るのではないか。

そう言ったのは、演劇百貨店の企画者である演出家の如月小春でした。 顔合わせの際、とまどう大学生たちを前に、彼女の宣言は続きました。 「ここは子どもの自由な発想をできるだけ実現する場です」。 そして「大学生は、中学生たちと共に悩み、楽しむこと」。 そのために中学生に向かって「ダメと言ってはダメ」なのだ、といいました。

中学生は、いや私たちは、普段あらゆるタブー感を感じています。 やってはいけないことの、オンパレードです。社会生活の中に入っていくときに最初に聞く言葉は「迷惑をかけない」です。

しかし、この場所ではダメと言えないのです。 子どもたちの新たな発想に対して、ダメと言うことは簡単です。 ですが、ダメと言わずに対応しようとすると一回その提案を受け入れ、吟味し、そこからその発想の何が良くて何が悪いと思えるのかを提出し、その発想に対しての、建設的な次の一手を打たなくてはなりません。

作業効率は驚くほど落ちます。現場の作業は遅々として進みません。 予想通り「ダメと言ってはダメ」というマジックワードのお陰で私たちスタッフの作業は滞りまくりました。

それで良かったのです。それが良かったのです。 大学生の彼らは「ダメ」と言えないことで、中学生たちと向き合わざるを得なくなりました。 中学生達と共に悩み楽しむこと、なんて言っても実際にどうして良いか分からないものです。 自分たちではそうしているつもりでも実際に共に悩み楽しんでいるか何て誰にもはかれません。

ですが、たった一言「ダメ」と言わないだけでそれが実現できているのです。 誰か一人が発想したことが他の子の協力を得られないとしきに「一緒にやらなくちゃダメじゃない」なんて言えないんです。 「他の子が賛成していないんだからダメだよ」とも言えないんです。 大学生の彼らは文字通り中学生と共に悩み、発想の実現を共に楽しむことができるようになりました。 物すごく苦しんで、楽しむどころではなかったかもしれませんが。

◆ ばらの花の女の子が全身全霊で教えてくれたこと

ダメと言わないことで、たくさんの表現に出会えます。 その表現は、ふだん私たちが慣れている形でやって来ないこともあります。 ちょっと油断すると、それがその子の表現であると気付けない。 ふとした拍子に見逃してしまうこともある。 しかし、その行動の中にある真意に気づいたときに、たった一つの行動が大きな意味を持って見えてくる。

印象に残った子がいます。一年目の発表会「星の王子さま」で「ばら」の役をやった子でした。 彼女はどこかホンワカとした、ユニークな発想をする女の子です。 やりたい役の絵を描いてファッションショーをした日がありました。 彼女はばらの絵を描き、その扮装をしました。不織布で作られた頭の上の大きなばらの帽子。 全身を緑の筒状の布で覆い、腕全体に羽根のような葉っぱを付ける…。

サン・テグジュペリが見てもこれがあのばらだと言いたくなるようなばらでした。 あまりにも見事に、嬉しそうにばらを作り、ばらになった彼女を見て、誰もその配役に付こうとしなかったほどでした。

その彼女が、途中でワークショップに来られなくなってしまいました。 その数日前から、朝起きられず徐々に遅刻してくるようになり、顔から精気がなくなり、ため息が多くなっていきました。 そしてある日、劇場入り口に泣き叫び赤ん坊のように嫌がる彼女と、彼女を連れてきたご両親を見つけることになります。

そこで私達は彼女が学校に行けなくなっていること、サポート校に通っていること、お母さんがそのことで苦心していることなどを知ることになりました。 劇場のスタッフによると、泣き叫ぶ彼女の声はまるで獣のようだったといいます。 その彼女を何とかして立たせ、叱りながら泣き叫ぶように彼女と闘っていたお母さん。 彼女の気持ちはどんなだっただろうかと思います。

如月が彼女のお母さんと話しをして、二つのことを約束していただきました。 ワークショップで何をやったのかとお母さんの方から聞かないこと、朝ワークショップに行きなさいと言わないこと、の二つです。 ふだん自分のことをあまりしゃべらない彼女が、本当に楽しそうにワークショップのことをお喋りしたのでしょう。 お母さんはとても嬉しく、楽しかったのでしょう。そのために、ほんの少し色々なことを急ぎすぎたのだと思います。

彼女は翌朝、一番に稽古場に立っていました。ほんの少しお母さんの期待が強すぎたのかもしれません。 ほんの少し彼女にねばり強さが足らなかったのかもしれません。 お家でその後どんなやり取りがあったのかは分かりませんが、彼女はその後、遅刻もせずに、最後まで稽古場に残り、本番の舞台に立ちました。 あれから三年経った今でも、ヒョッコリやってきては、みんなの注目を集めながら、ホンワカとしています。

彼女にとっての表現とは何だったのでしょう? ばらの花を被ることでしょうか? 私は、彼女が全身全霊でした表現とは、ワークショップを休む、という形で現されたのだと思います。 全世界を向こうに回して、彼女は小さな身体で精一杯自分を表現していました。 もしかしたら簡単に「問題」として処理されてしまうかもしれない、彼女にしかできなかった表現。私はそれを芸術と呼びたいのです。

◆ 演劇でしかできない、表現の可能性を信じて

今年の世田谷のワークショップでは、指輪ホテルの羊屋白玉さんを迎え、さらに意欲的な取り組みを行っています。 身体を通した表現、を目指して昨年12月からスタートしたワークショップの発表会は、どうやら即興劇を使ったお芝居になりそうです。

中学生の参加者みんなが持ち寄った宝物から発想した表現と、即興的に生み出される自分の感覚や、身体の奥底にある宝物を取り出してくる作業。 その二つの宝物を糸を寄り合わせるようにして作った表現で、お客さんの身体の奥底の宝物にまで触れようとする試み。

ばらの女の子の中に何が起こったのか? 結局それを見せることは出来ないと思います。そんな必要もないのでしょう。 ただ、今年もばらの女の子はあの時のまま、ここにいます。そこにいること自体に意味がある。

演劇でしかできない、演劇だからこその関わり合い方があるとしたら、それは「同時にそこに存在している」ということだと思うのです。 この世界の一部としてまるごとの私がここにいる。私の中に世界はある。

「ダメといってはダメ」という言葉が、充実した過程を作ってくれています。 悩み、迷い、楽しむことで得る、充実した過程が作る充実した結果。 膨大な寄り道を経るからこそ、たどり着ける結果がここにはあります。

まだ旅は途中です。今年も一緒に悩んでくれる大学生たちが来ています。 充分にアヴァンギャルドになってます。なりすぎてクラクラするぐらいです。 物語は今年で完結します。ですが、彼らはこれからも生き続け、私たちの活動は広がっていきます。 大きな大きな終わらない物語の最初の物語を「一緒にそこにいる」ことで楽しんで欲しいと思います。