フィリピンとアートと子どもたち
津田真由美(学生)
2003年12月15日
私たち演劇百貨店が世田谷パブリックシアターで行った一昨年のワークショップで、スタッフとして子どもと一緒に作品作りをした津田真由美さん、通称・ミミーゴ。 彼女は現在フィリピンで、アートマネジメントの勉強をしています。 「フィリピンの子どもたちって、やっぱり日本の子と違うのかな? それとも意外に似たようなもの?」という素朴な疑問をそのまま彼女にぶつけ、原稿にしていただきました。 日本ではなかなか意識されない、歴史的な問題と文化の関係にまで踏み込んで展開された、津田さんの文章。 ぜひ、全文チェックしてください。
◆ ギターがあれば、即興でオペラ!
歌と踊りとパーティーが大好き、カラオケもギター弾きも上手、生来の演技力いっぱい、などなどフィリピン人の特徴を挙げていくときりがない。 日本では、カラオケボックスに入った仲間が、順番に歌っていく。 まわりで騒音にならないよう気兼ねをしながら、閉ざされた空間での歌唱だ。 しかしフィリピンでは、その全く逆。 マイクとスピーカーさえあれば、どんな場所でも、カラオケ広場になってしまう。 しかも、そこには老若男女が集まっている。 思いっきり音痴なひとが、大声で歌っていても、あまり気にしない。
そして、不思議に思うぐらい、ギターを弾ける人が多い。 ギターさえあればいつでもどこでも、早速ミニ演奏会か即興オペラの始まり。 フィリピノ語や英語やスペイン語の曲、バラードもドゥエットもあるバラエティーショーなのだ。 キャンパス内でも、ギターを弾いている学生の姿をよく見る。 話を聞くと、兄姉や親戚に手ほどきは受けたが、あとは独学だという。
子どもたちや若者の間での人気は、香港や台湾のアイドルグループとメキシコ製のポップドラマにある。 街頭ではストリートチルドレンが、流行の曲に合わせて、スターの振り付けを真似て、楽しそうに踊っている。
スペインに333年間、アメリカに100年弱の欧米による支配を受けてきた歴史があり、国民の90%は、キリスト教徒。 皆、日曜日のミサ参列を欠かさない。 それでもミンダナオ島を中心にイスラム社会もきっちり存在する。 このように、様々な民族的・文化的要素がミックスされているので、フィリピンのアートを一言で語るのは至難のワザだ。
私の母はフィリピン出身である。 国籍はフィリピンだが、スペイン人と中国人の「血」もひいている。 日本人の父がフィリピンの大学で教えていた時に、出会い結婚した。 つまり、私は、俗に言う「ハーフ」である。 しかし近年、代わりに「ダブル」と言い換える傾向が見られる。 「ハーフ」は血が半々という意味で、そう呼ばれている。 しかし、「ダブル」という概念は、血統ではなく、アイデンティティを基準としている。 文化は二分できない。 両親に育てられる過程で、ものの考え方や宗教、習慣など、無意識に私たちは、二つ、またはそれ以上の価値観に接してきた。 そういった子どもたちは、「ダブル」(あるいは「マルティプル」?)と呼ばれるほうが、自然である。
さて、”フィリピンとアートと子ども”について考えてみると、フィリピンにはスペイン、アメリカ、中国、イスラム、日本などの影響が入り交じり、独特の文化が開花した、複雑な歴史背景をもつ国であると気づいた。 何が純正で独自であるのかを見極めることは困難であるが、フィリピンとそのアートは不思議と複雑で、非連続的で、そして意外性を持っている。 そこで、ふっと思った。 フィリピン人は、まさしく「ダブル」のようだと。 二分も三分も、四分もできない多種多様な文化とともに共存しているのだから。
◆ 植民地としての歴史と、分かち合いの土壌
私、津田真由美、22歳。 現在、桜美林大学総合文化学科を休学し、ここフィリピン私学の名門、アテネオ・デ・マニラ大学に留学中。 演劇論やアートマネージメントについて勉強中だ。
大学内にある女子寮では、3人のまだまだティーンのギャルたちがルームメイト。 私は小学3年生のときに1年間フィリピン留学をするなど、物心付くころから、日本とフィリピンとアメリカを行き来してきた。 フィリピノ語も日常会話程度なら理解できるし、英語も公用語として頻繁に使われているので、コミュニケーションを図るのは問題ない。 実際、同級生たちとの会話も9割が英語だ。
さて、私にとって日本とフィリピンでの生活で、もっとも大きな違いは、親戚の数だろう。 私の父は、一人っ子。 だから、日本では私にはいとこはゼロ。 祖父母とも既に他界しているし、同世代では父のいとこが何人かいるくらい。 それに比べ、私の母は9人きょうだいの8番目。 85歳の祖母は健在だし、孫(私もそのひとり)の数は30人弱(未確認)である。 クリスマスや冠婚葬祭には皆集まる。 名前と顔が全員については一致しないくらいだ。
フィリピンでの世帯構成は、日本とはだいぶ様子が異なる。 子どもの数が多いだけではなく、家族以外の親戚が同居していることが多いからだ。 田舎出身でマニラの学校に通うため寄宿をしている、あるいは両親とも海外出稼ぎに行っているという縁戚の子どもを預かっていたりもする。 中流以上の家庭では、家事や子どもの世話をする家政婦、ドライバーやその家族すらも一緒に暮らしている。 フィリピンの子どもは、成長過程においてにぎやかな人間関係の網目の中にいるので、そういった環境が与える影響が大きい。
また、家族関係だけでなく、友達やグループ、コミュニティーの間でも、同様の親密さを感じる。 そこにはしばしば「バルカダ」が形成されている。 簡単に言えば、仲良しグループである。 私が日常、子どもやティーンたちと接して強く感じるのは、シェアする精神と言うか、お互いに分かち合う心得が大変豊かにあるということだ。
カラオケやギターの例を改めて取り上げれば、そこに集まってきた仲間と、音楽を分かち合うのが楽しみなのだ。 仮に分量が足りなくとも、ご馳走ではなくても、分かち合って食事をすること自体が大切にされている。 教会に行けば、そこに集う人々と、神を通して愛を分かち合うことになるのだ。
こういったことは、何世紀もの植民地時代を経て人々が培ってきたことかもしれない。 だからこそ、1986年と2000年のピープルパワー革命に代表されるように、共に苦しみを受けてきた人々が、一緒になって立ち上がり、堕落したマルコスやエストラダ政権を打倒することができたのだ。
◆ フィリピンにある「インフォーマル文化」
アートを考えるときも、同じような本質が見られる。 演劇・映画・美術作品などにおいて、悲劇的な歴史や、不安定な社会情勢、それらに立ち向かった有名無名の英雄たちを題材にしたものが多い。 しかし、興味深いことに、まったく対照的な傾向もある。 それは、「コメディー文化」だ。 厳しい状況や辛い出来事を蹴飛ばすと言えば少し大げさだが、とにかくフィリピン人は、泣きながらもユーモアのセンスを忘れない。
私のいとこのひとりが言っていた。 フィリピンにあるのは「インフォーマル文化」だと。 これという特別な形は、存在しない。 しかし、人さえ集まればたちまち劇場の出来上がりで、子どもたちも小さいころから、そういった人の集まる場で踊りや歌などを通して、分かち合いの体験を重ねている。 助け、助けられ、互いに支えあって暮らしていくことは、かれらにとって、重要な人生哲学であり、理想的な文化生活なのだ。
小学3年生の”バッチャイ”という名の親戚の子に聞いてみた。 一番好きな科目は何と。 すると即座に、”アート”のクラスだと答えた。 どうやら、絵を描くのが好きみたいだ。 そればかりか、いつもお得意の踊りを披露してくれ、学校で起きたことなどを、表情豊かに説明してくれる。 とにかく、おしゃべりだ。 祖母が住んでいるレイテ島で出会った子どもたちに、カメラを向けると、撮ってくれ、撮ってくれと、屈託のない笑顔で、文句の付けようのない被写体になってくれる。
「インフォーマル文化」のフィリピンで、私はいろいろなアートのあり方に触れることができた。 特にフィリピン人の子どもたち、そしてアーティストたちと触れ合うなか、彼らやかの女たちには思いや苦しみを、踊りでも、演劇でも、絵画でも、駄洒落でも、歌でも何でも、アートに創造して表現したいという貪欲さが溢れているのを感じるのは私だけだろうか。